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ハイパーインフレ…ブラジルで過ごした最初の4ヶ月は、経済長期低迷期最後の4ヶ月でした。
当時、僕はお金をかけないで生活していました。 ハイパーインフレでは、お金をおろしてもすぐにお金の価値が下がります。 それにまとまった現金を持っているのも、ブラジルでは危険です。 よってお金を使わない生活を余儀なくされましたが、ラッキーな事に助けが… 94−95年にかけて、ミナスジェライス州のベロオリゾンテ(パラナ州クリチバにも2ヶ月滞在)という街に住みました。
ブラジルで過ごしたシンプルライフの1年は僕の人生に強烈な影響を与えました。 住んでみないとあのアミーゴ文化の素朴さ、温かさは分からないと思います。 ブラジル時代には沢山の友達が出来ました。
彼らとはFBやインスタを通して交流が続いています。 ソーシャルメディア以前は、ほんの数人と手紙や電話で繋がっていただけでした。 今や世界は狭くなりました。 「トン ジョビン?聞かないなあ〜。上流階級の音楽だよ」
名前こそみんな知ってましたが、曲は知らない人がほとんどでした。 僕にとってブラジルは音楽の宝、夢の国だったけれども幻滅したのを覚えてます。 ところが最近変わってきたそうです。 僕の住んでいたブラジルのベロオリゾンテに、ルシアーノ ぺレイラ フィリョという金持ちがいたそうです。
彼は医者であり、社長でした。 1990年に亡くなっています。 2000億円の資産がありました。 3万件の不動産を所有していたそうです。 とても良い人で、貧しい人からはお金をとらずに診てあげたそうです。 モノではない、問題は人だ。
ブラジルにいた時、それを痛感しました。 何かの不足から、クリエイティビティや能力、筋力が刺激されたりするものです。 おもちゃが無いから、作る。 シューズも無い、公園も無い、でもサッカーしたい。 だから裸足で、路上でやる、それが彼らの普通。 足裏の筋肉が日本人とは比較にならず、球際に強いのが当たり前になります。 「(パンとコーヒーだけ…)」
いつも通りの朝食。感謝しなきゃと思った矢先、何か奥からやって来ました。 「ミナスはケージョ(チーズ)の産地で有名なのよ」 僕は皿に盛られた白っぽいチーズをつまんで、口に突っ込みました。 「スワーヴェ(マイルド)で美味しいね」 モッツァレラチーズだったのか?もっちり感と、スムースな味わいで、すぐに気に入りました。 ミナスジェライスでは本当にチーズを沢山頂きました。 「お前ら小学生以下だ」
コンサルタントが呆れて吐き捨てました。 僕と兄は、彼と店のレイアウトのミーティングをしてました。 シドニーのノースショアのカフェで、秋(5月)の午後だったと覚えてます。 確かに当時の僕は小学生以下だったかも知れません。 本当に何も知らなかったのです。 ミルトン ナシメントは「ブラジルの声」と形容されるシンガーソングライターです。
初めて聴いたのは、アメリカに住んでいた頃です。友達のクリントがレコードやCDを聞かせてくれました。 最初はその声に違和感を覚えましたが、聴いていくうちに好きになりました。 曲も捻っているものが多いです。 ブラジルに住んでいた時、教会音楽のあるアーティストが、好きになりました。
ジョアオ アレシャンドレというシンガーソングライターです。 この人の弾き語りは非常に洗練されてます。 ブラジルのゴスペル業界の重鎮で、人気もありますが、日本では全く無名です。 認知されて欲しいです。 ベロオリゾンテに帰り、結局ビザはダメだったと皆に伝えました。
すぐに日本行きの飛行機チケットを買いました。 もうこの辺りの記憶はほとんどありません。 混乱していたからです。 帰国するとはいえ、荷物もほとんどありませんし。 大使館からそのまま移民局に行きました。
まだ午前中の清々しさを感じながら、ビルの中に入り… ついにという気持ちでカウンターに向かいました。 「言われた通り、パスポートを用意しました。はい、どうぞ」 と白人中年女性に、出来立てのパスポートを手渡しました。 そして彼女はカウンターの奥に消えて行きました。 ベロオリゾンテに戻った僕は、再びバスチケットを買いました。
もうビザが切れる寸前だったからです。 でも、一週間後の日程しか空いてませんでした。 今回は、丁度日本から遊びに来ていた弟が同伴します。 アスンシオンの日本大使館を出て、また5時間バスに揺られて、国境付近の小さな町に向かいました。
ジュニオの友達が住んでいたからです。 ヴァギネル(名前)の小さなログハウスに、一泊させてもらいした。 国境付近は赤土です。 道路も舗装されておらず、到着した時はすでに夜でした。 赤土はパウダー状で、砂埃が酷かったです。 パラグアイの移民局に着き、長い列に並びました。
カウンターが近づいた時、ジュニオが会話を聞き取ろうとしてました。 失望した顔つきでカウンターを離れる人たちを、何人か見ました。 僕と同じ要望で来た人たちが、断られていたようです。 ブラジルで1年住んだ事があります。
実際には半年で一旦帰国し、ビザを取り直し渡伯しました。 当時情報がありませんでした。 多くの在日ブラジル人の友達は、ビザは何とかなるというばかりでした。 とりあえず、観光ビザで入国し、その後切り替えればいいと。 僕も24歳と若く、何も知らない子供でした。 ブラジルの夜は長かった。
金曜の夜は大抵旅先ですが、たまにミッションベタニアの寮にいた事もありました。 周りは住宅地で、近くと言えるほどでは無いけれど、バーとかあって寝ようと思っても、音楽が聴こえてくる… |
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4月 2023
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