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「うちはキリスト教徒ではないから、クリスマスケーキは買わない。その代わり花祭りを祝う(お釈迦様の誕生日)」 という変わった家でした。 仏教、神道に熱心な家庭に育った僕は、11歳までクリスマスを祝う事はありませんでした。 朝夕、神棚と仏壇の前で正座し、45分くらいお経を唱えるのが習慣でした。 日曜日は神社仏閣巡りが多かったです。 習慣を守る事の大切さ、そして何かを信じる事の大切さを、教えてもらいました。 おじいちゃん、おばあちゃんと共にお経を唱える時、先祖の大切さを学びました。 「先祖の中に御嶽山の祈祷師もいた」 という事も知り、うちは筋金入りなんだという事も。 毎年恒例の千願経という、家のイベントすらありました。 それは、般若心経を千回唱えるというものです。 しかし仏教(東本願寺)と神道の両方をやっていて、混乱したのを覚えてます。 おじいちゃんが11歳の時に亡くなったのですが、大切な言葉を残してくれました。 「俺もよく分からんだけど、やっとるだ」 その言葉のおかげで、母が聖書の言葉を読んだ時に、それが非常に分かりやすく、回心しました。 僕は抵抗しました。 理屈は分かっても、これまでの習慣を変える事に抵抗を感じました。 日本人として先祖を大切にすべき、習慣を守るべきだろうと。 でも僕も、よく分からない仏教、神道より、子供の頭でも分かる、聖書の教えの方がよくなりました。 先祖を大切に思う事と、何かの教えを信じる事の区別がつきました。 誰かに聖書の話をすると、大抵好感を持ってもらえます。 シンプルで、誰にでも分かるからです。 自分がどこから来て、なぜ生きていて、どこへ行くのか?明確になるからです。 でも、頭や心ではいいと思っても、みんな色んなしがらみがあります。 だから一歩踏み込む勇気が持てません。 それはよく分かります。 一方で多くの人が、分からないでやり続ける事の限界も感じています。 お墓とか、先祖の供養とかです。 家族の誰が責任持つのか、など深刻な問題です。 習慣とか義務でやっているとしたら、重荷に感じます。 そもそも供養が必要なのか?という質問はタブーのようです。 でも僕やおじいちゃんのように、色々疑問はあるでしょう。 一体何回お坊さんにお経を唱えてもらったら、極楽浄土できるのか? 南無阿弥陀仏と唱えるだけで、極楽浄土したのではなかったか? お盆には地獄の蓋が開いて、戻ってくるというが、普段は地獄にいるのか? 仏壇に先祖はいるのだろうか? それとも墓にいるのだろうか? もし輪廻を信じる人であれば、今どこにいるのか? いや、どこにいる訳でもなく、自分の心を先祖に向けさせるためのツールなのだろうか? 経済が悪くなって、なかなかちゃんとした供養や墓参りができずに、罪責感を持つ人も多いです。 先祖に申し訳ない、と思います。 でもちょっと、先祖になったつもりで考えてみましょう。 景気の悪い中、必死で家族を養おうと頑張っている、孫や息子を見て、何かの祟りを下そうとするでしょうか? もっと供養してくれ、と思うでしょうか? 誰もそんな事思いもしませんよ。 俺の事はいいから、頑張れと応援します。 お金に余裕のある人は、ちゃんとした供養や墓も守る事が出来ます。 今はお金に余裕のない人、忙しい人のために、色んなサービスがあるようです。 だからみんなそれぞれ出来る事をやろうと努めます。 これは先祖を思う気持ちが強い事の現れなのでしょう。 もしくはやっぱり何かやっておかないと怖い、という気持ちもあるのでしょうか。 クリスチャンの僕は、先祖を強く敬う気持ちで十分だと考えます。 事あるごとに、家族や兄弟と団欒し、先祖の話をし、語り継ぐ。 うちはそういう風に先祖を敬っています。 敬う気持ちがあれば、意識せずとも自然にそうなるのでは? これは信仰の問題ではなく、気持ちや教育の問題です。 多くの日本人が宗教としてやっている事は、先祖を大切にしている気持ちを、何かの形で表したい、という意味に僕は感じます。 その気持ちはそれで素晴らしいです。 先祖を大切にする気持ちは素晴らしい、でもそれは何かの教えを信じるというものではなく、ごく当たり前の事をしているに過ぎません。 だから、どんな教えを信じているのか?の問いに対し、 「よく分からんけど、やっとるだ」 となってしまうのではないでしょうか? やはり何かを信じたいのです。 だから何か分からなくても、先祖を敬う事は良い事だから、漠然でも信じている、と言いたいのでしょう。 仕事でも、家庭でも、学校でも、目的を持つ事の大切さを説きます。 なぜやるのか?を知るのは重要だと、教わります。 ゴール設定を明確にします。 何をしているのか目的が分からない、それはだめだ!と言います。 しかし、人生の目的についてはどうでしょう? 自分はどこから来たのか? なぜ生きるのか? どこに行くのか? それらの問いに答える事は、来年、いや明日を生きるために非常に大切だと思います。
先祖を敬う事は当然の事ですので、ちょっと脇に置いて区別しましょう。 年の暮れは忙しいですが、立ち止まって考える時を持ちたいものです。 ちょうど都合よく、クリスマスにはそれらの問いに対する答えがあります。 答えを知って祝うのか、知らずに祝うのかには、大きな差があります。 今年はその答えの探求のために、本当のクリスマスを教会で祝うのはいかがでしょう? コメントの受け付けは終了しました。
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4月 2023
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