|
長く生きるほど、大切な事は単純であると気づきます。 人間関係、健康、お金、音楽、その他… 死ぬこともそうです。 聖書では、死後神の前で裁かれるとあります。 今やグーグル、フェイスブック、AIが人の全ての営みを記録し、貯蔵しています。 本当の神が、一生の全ての記録を出来ないわけがありません。 実際、聖書には様々な書物が開かれ、人の一生の行いについて裁かれると書かれてあります。 果たして、自分は罪がないと言い切れる人がいるでしょうか? というより聖書の神の基準は、どれほどなのでしょうか? 「兄弟に向かって腹を立てる者は、裁きを免れる事は出来ない」 「兄弟に向かって『能無し』という者は、最高議会に引き渡される」 「『ばか者』という言う者は、燃える地獄に投げ込まれる」 「女性を見てスケベな想像をする者は、すでに心の中で不倫を犯したと同様だ」 これほど厳しいと、イエスは説明しています。 僕はこれら全てに不適合な人間です。 人の善悪の基準はどこまで行っても、他人との比較です。 相対的にでしか判断できません。 それに対し、神は絶対であります。 そしてその基準はとてつもなく厳しいのです。 完全に聖なる神の前に出るのは恐ろしく、どう考えても地獄行きです。 しかしそれも神はご存知です。 完全に聖なる神であると同時に、本当のお父さんでもあります。 罪は罰せなければならず、同時になんとか救いたい… その狭間に立って、計画された救済策がイエスの十字架刑でした。 ひとり子イエスの上に神罰を下し、そして人類の罪の清算をしました。 だからその事実を、信じる者は救われるのです。 僕には到底考えられない愛、偉大な愛です。 「アメイジング グレイス=驚くばかりの恵み」とはこの事を指しているのです。 有名なゴスペルは、神がそこまでして自分を愛している事、そうされる資格などない自分に対し、一方的に差し出された贈り物について歌っています。 偉大なのは、この単純極まりない教えです。 キリスト教は「修行し、悟りを得よ」ではありません。 宗教とは人が「神に受け入れられたい願望」ですが、キリスト教はこんなに単純なので宗教とは言えません。 「十字架の上で、自分の罪の全ては清算された」 そう信じ、告白するならば救われると聖書は教えています。 もし、今それを信じたいと思ったら、是非その場で真摯な思いでこう祈りましょう。 「神様、あなたが私を愛して下さり、私のためにイエスを身代わりに十字架にかけて下さった事をありがとうございます。イエスを私の救い主と信じ、受け入れます。これからの人生をお導きください。イエスの名によってお祈りします、アーメン」
0 コメント
返信を残す |
アーカイブ
4月 2023
|