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ブラジルのベロオリゾンテという街は、風情があるというか、ちょっと古い建物が目立ちました。 僕が住んでいたのは94年から95年にかけてでした。 初めてセントロに行って、地元に馴染む服を探した時の事です。 まるで70年代イタリア映画の中に迷い込んだかのような、ラフで汚れたビルが目の前に広がってました。 強烈すぎて今も鮮明に覚えてます。 ブラジル以前は南カリフォルニアに住んでいたので、ハリウッド映画の景色に見慣れていました。 でも僕はイタリア、フランス映画の方が好きです。 それでベロオリゾンテの眺めに興奮したんですね。 何というか、70年代から時間が止まっているようでした。 レコードとかまだ普通に売られてましたし。 フェイラ(市)に何度か寄った事があります。 野菜とかアートとか、日本と比べると粗雑さが目立ちますが、異国情緒満載でした。 日本人の目にはガラクタとしか言えない変なモノが沢山売られてました。 人も野性味が溢れており、活気がみなぎっていました。 後半の半年はアパートを借りて住みましたが、そこでガラクタ家具を買ったんです。 ポンコツの冷蔵庫、ガスコンロ、真空管テレビ…僕は分からないから要らなかったけど、ルームメイトが欲しがったのでポンコツ中古を買いました。 子供の頃のテレビよりもずっと粗悪でした。 映像が現れるまでしばらくかかりますし、時々画面が消える。 そんな時は空手チョップして直します。 洗濯機は買えなくて、アパートに共同の洗濯場というのがあり、そこで手洗いです。 洗濯板のようになっているシンクでゴシゴシやりました。 でもそのうちアパートの住人とメイドを雇った方がいいとなり、折半して半日家事をしてもらいました。 一緒にメイドをシェアしてた家族はイタリア系ブラジル人でした。 凄くいい人たちで、毎日午後になると僕を呼びに来ました。 「ヒトシ、ケーキ作ったよ」 カフェとケーキ、といってもブラジルの場合クリームなしのパウンドケーキタイプです。 そこの旦那はミナス州の音楽に精通していて、よくシコとかルルとかのレコードを聴かせてくれました。 タバコを吸いながら、ミナス州の音楽について語ってくれました。でもまだ僕はポルトガル語がよく分からなかったのが心残りです。 ブラジルはイタリア移民が多く、ポルトガルも同じラテンなので、ベロオリゾンテの景色はイタリア映画に共通するものがあります。 ブラジルでも南部に行くと、ドイツ系移民が多いので白人エリアになります。 北部は貧困層が多く、暮らすのは容易では無かっただろうと思います。 サンパウロ州、リオデジャネイロ州に隣接するベロオリゾンテは、僕には丁度良かったです。 日系人も殆どおらず、現地に溶け込む事ができました。 当時はいわゆる第三世界(今もそういう呼び方するのかな)のブラジルでした。 その暮らしをリアルに体験出来たのは、本当に僕の宝です。 経済は酷くて、街は汚く、時代遅れな感じのブラジルでしたが、最高に良かったです。 後半は日本から電話機を持参して、何とか家族と連絡がつくようにしました。 でも、周りの友達はみんな電話など持ってませんでした。 車も無し。 もちろんインターネットなんて無し。 それでいて最高に楽しい日々でした。
音楽を弾いていればいいという生活だったのもありますが、何より人との繋がりがたまりませんでした。 言葉も分からなかったのに… 当時繋がるには、実際に会うしかありませんでした。 スマホがあっても、言葉ができなければ会うしか無いです。 身振り手振りで会話です。 そしてこれまでの人生で最も多くの人と会い、交流を持った一年でした。 人と本当に繋がるってのは、テクノロジーとか、経済や物質的豊かさとは全く関係ないんだなぁと思います。 会って話すに尽きます。 イタリア系移民とかラテン文化の人懐っこさに、強烈な影響を受けました。 コメントの受け付けは終了しました。
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4月 2023
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